ひまじんの日記

定期更新を目指す不定期更新です

大学入学後の可能性を潰す罠

あまり見ないようにしていますが、僕はかねどーさんのブログを読むのが好きです。こんなに頭がよくなれたら、きっと世界の見え方も変わってくるんだろうな、と思います(ちなみに、あまり見ないようにしているのは、自分に全く向いていないであろう生き方に憧れそうになるからです)。

その中でも特に好きな記事が、

これから大学に入学する新入生のために - かねどーのブログ

です。非常に含蓄のある内容なので、新入生でなくとも一読の価値ありです。

この記事で語られているのは、「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」ことに対する問題意識です。その中でも特に多いパターンとして、「勉強することを放棄してしまう」ことと、「一つの部活やバイトに強く拘束され、それを大学生活の大半にしてしまう」ことが挙げられています。その上で、この問題への対処法について、かねどーさんの見解が述べられています。

そして、今日僕が考えるのは、「なぜこの問題が起こっているのか」です。以下、かねどーさんの考察をベースに分析を進めるので、先に挙げたリンクから該当の記事を一読頂ければ、より内容を理解しやすくなると思います。というか、最悪この記事は読み進めなくても構わないので、該当の記事は読んでみてください。それくらいオススメです。

 

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早速ですが、分析を始めようと思います。

「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」ことの原因は、大別して2つです。「新入生側の問題」と「環境側の問題」です。まずは、「新入生側の問題」について考えてみようと思います。

 

■新入生側の問題

この問題は、2つに具体化できます。それが、「現状を疑わない」ことと、「現状を疑う(不満を持つ)だけで終わる」ことです。さらにこれらは、新入生(というより大学生、ひいては日本人の多く)が抱える2つの問題に原因を求められると考えます。それが、「主体性がない」ことと「問いの設定ができない」ことです。以下、これらを詳しく見ていこうと思います。

・主体性がない

多くの人にとって、大学入学まで生活とは「与えられる」ものだったと思います。住む場所も、学校も、部活も、与えられた選択肢の中から選ぶだけです。大学も「当然行くもの」として扱われた上で、どこを選ぶか、という問題にすぎなかったはずです(無論例外もあるとは思いますが)。勉強も同じです。興味に従い自ら取り組むものではなく、与えられ、やらなければいけないものだったと思われます。

結局のところ、僕たちは与えられた選択肢から選ぶことに慣れきってしまったのでしょう。それによって、「そういうものだ」として現状に疑いさえ持たない受動的な思考形態が形成されたと考えられます。結果、かねどーさんが言うところの『「人生の先輩」面したがる大二病の上級生』や、『強力なアイデンティティを持つ(ように見える)「意識高い」学生や社会人』の話を、何も考えずに受け入れてしまっているように見受けられます。

・問いの設定ができない

主体性と似てるかなとは思ったのですが、独立させました。これはよく言われる話で、高校までの勉強は「問題が与えられ、それを解く」もしくは「テーマが与えられ、それについて考える」がほとんどであり、「自ら問いを設定する」ことに関しては全く重きを置かれていません。結果、漠然とした不満、不安、疑いを持つことができたとしても、それを「解決すべき問いとして」認識することができなくなっている、と考えられます。

自分はいま何を疑い、それは何が原因なのか。そして、いかにして解決すべきか。これら非常に重要な問いが立てられなければ、現状に甘んじるか、考え無しの無謀な行動を取るしかありません。結果として、言語化できない不安感を払拭すべく、自己承認や自己肯定を求めコミュニティへの所属を安易に決定してしまったり、誰かに付け込まれてしまうといった、新しい問題を引き起こしているように思えます。

 

■環境側の問題

ここでは、新入生を取り巻く外部環境を3つ考えてみます。同じ学生と、大学と、社会です。まずは学生について考えます。

・学生

入学後、新入生は、上級生から括弧つき「正しい大学生としてのありかた」に関する講義を拝聴します。このあたりはかねどーさんの記事でも指摘されているので省略します。余談ですが、上級生は新入生に「正しい大学生としてありかた」を語ることを通し、逆に自己を教化していると思われます。結局のところ、みんな自己正当化が大好きなのでしょう。

そして、同級生と「正しい大学生のありかた」を相互承認します。これは、閉鎖的コミュニティではどこでも見られる現象です。「勉強しない」「ひたすら遊ぶ」「狭いコミュニティ内で暮らす」ことが正しいありかただと、お互いに確認しあい、満足します(書くまでもありませんが、当然例外もあります)。

・大学

「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」という問題を、大学側が「認識していない」もしくは「認識しているが対処していない」場合がかなりあると思われます。この原因を探るべく、大学という組織に影響を及ぼしうるという観点から、同窓会組織(OB・OG)と教授陣の2つを見てみようと思います。

まず、同窓会組織を見てみます。彼らもまた過去に「自分の可能性を自ら狭めた」被害者であり、かつ、多くの場合それに違和感を持っていません。違和感を持っていたとしても、自らがそうだったこともあり、”必要”悪と認識している場合もあるでしょう。むしろ、自己正当化のために、それは正しいもので、変えるべきでないと考えている場合も十分にあります。結果として、問題の再生産が繰り返されていると考えられます。

次に、教授陣を見てみます。彼らが問題を認識していないとすれば、その最大の原因は彼ら自身の人生経験の欠如に求められると考えます。すなわち、大学院入学後教授となり、現在に至るまで極めて同質化された集団内だけで暮らし、自ら多様な価値観との交流を遮断した結果、閉鎖的な環境が「自分の可能性を自ら狭める」という問題を引き起こすことに気づけてはいないのではないのでしょうか。一般的な社会生活を送っていれば、異文化との交流が新たな気付きをもたらすことが必ずあるはずです。しかし、象牙の塔に閉じこもることで、そのような気付きと無縁になってしまっているとすれば、問題の認識に至れないとしても不思議ではありません。

そして、彼らがあえてこの問題に対処していないとすれば、そもそも教育に関心が薄いか、教育に対するインセンティブが低いか、この問題に対処するインセンティブが低いからだと考えられます。とりわけ、専門分野における生徒からの承認を自尊心の足しにしている場合は、専門分野以外の教育的指導は生徒に失望をもたらすリスクが存在する上、仮に教育に成功してもその専門分野以外にも関心を分散させるという結果になるため、実行しにくいのではないでしょうか。

・社会

これも、同窓会組織のケースと同様に、社会全体で問題の再生産が行われているように思われます。また、社会(とりわけ企業)は、「自らの可能性を狭めた」学生を期待している節もあると考えられます。何も考えずに上司の言うことを聞き、「そういうものだから」「昔からそうだから」で何故か納得させてしまえるならば、それほど都合のいい社会の歯車はないでしょう。

 

以上が、僕が考える「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」原因です。

 

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原因を分析したので、対策もちょっとだけ考えてみようと思います。

想起しやすい対策としては、「学生が変わり、大学の教育システムに影響を与えたのち、その考えを持ったまま社会に進出していく」というボトムアップ型か、「国が教育システムを変え、学生の意識を変える」というトップダウン型のアプローチのいずれかだと思います。しかし、僕はどちらもうまくいかないと考えます。理由は、学生はあまりに数が多くかつバックグラウンドが多様だし、国は内部の利害対立の調整がうまくいかなそうだからです。

ではどうすればいいかというと、僕は大学を変えるべきだと思います。確かに、直感的には、日本に750校もある大学を全て変えるなど不可能なのでは、と思えます。しかしながら、日本には、ある1校が変わるだけで他の750校を少しずつ変えていくような、素晴らしい大学が存在します。それが、東京大学です。事実、秋入学も推薦入試も、最高学府たる東京大学が動くと、その流れは他大学にも波及しました。そして、天下の東大で育成された学生は、国であれ産業界であれ重要な役割を担います。ですから、もし僕がこの問題の解決に取り組むなら、東大をどう動かすか、についてを真剣に考える気がします(ぶんなげ)。

 

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2010年度一橋大学入学式で、当時の学長が言っていた印象的な言葉があります。それが「大学生活はすべて自己責任」です。大学生の足をひっぱる罠はいたるところにありますが、それにひっかかってしまうことすら、自己責任なわけです。

結局のところ、自分の人生を生きられるのは自分しかいません。一橋大学を卒業したと噂される某ブロガーの言葉を借りるなら、「自分のアタマで考えよう」、それしかないのでしょうね。

人を嫌う理由、悪口を言わずにいられない理由

いつでも、どこでも、だれとでも、悪口は盛り上がります。「嫌い」「苦手」「無理」という声が、居酒屋に行けば必ずどこからか聞こえてきます。

なぜここまで、人は人を嫌い、悪口を言わずにはいられないのでしょうか。悪口は、人間関係をややこしくします。人の口はとことん軽いもので、内緒なはずの悪口は一瞬で広まり、いつの間にか関係がこじれています。「言っていいのは言われる覚悟のある奴だけだ」といわんばかりに、悪口は悪口を呼び込みます。ちょっと考えれば、悪口なんて、百害あってちょっとの利しかないのがわかるはずです。

にもかかわらず、今日も明日も、人は人を嫌い、世界には悪口がはびこります。今回は、「嫌い」と「悪口」のメカニズムについて考えてみようと思います。

余談になりますが、今回の記事は、KくんとかNくんとかの意見を参考にしてます。あのコミュニティでは、なんだかこういう話題が比較的多い気がします。

 

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まず、「嫌い」と「悪口」の関係について考えてみます。なぜなら、ここを混同すると、純粋な「嫌い」の感情が捉えにくくなるからです。さっそく見てみましょう。

直感的には、「悪口は『嫌い』の結果生じるもの」と捉えられています。つまり、「俺はあいつのことが嫌いだ。だからあいつの悪口を言うぜ」という論理です。しかし、必ずしもこの論理が当てはまるわけではない、と僕は考えます。以下、「悪口を言っているが、実はあまり嫌いでない」状況について検討します。具体的には、2つあります。

 

1.共通の敵を作りたいとき

2.愚痴を言いたいとき(自己正当化)

 

まず、1について考えます。これは、あるコミュニティ内で共通の敵を作り、悪口を言い合うことで、コミュニティの結束を深めるという行為です。つまり、敵の敵は味方だね!という話です。わりとどうでもいい理由から始まるいじめとかは、これが原因のような気がします。これは「勝ち馬に乗る」ことでもあるのですが、それに関しては後述します。

補足として、これは「会話に窮した場合の共通の話題」にも使われます。経験則ですが、これを多様するコミュニティは、あまり長続きしない気がします。なぜなら、「言っていいのは言われる覚悟のある奴だけだ」といわんばかりに、悪口は、それを言い合うコミュニティ内の誰かの悪口をも誘発するからです。

次に、2について考えます。その人総体としては嫌いではなくとも、1つ1つの行動に理解できないものが含まれている(例:仕事が遅い、試合でエラー、男なのに奢ってくれない)場合、これが発動します。ちなみに、これに「自己正当化」という括りをつけたのは、上記の例は「自分の常識」あるいは「自分が所属するコミュニティの常識」からみた「非常識」(=理解できない行為)なのであって、それらを否定することで自分の常識を肯定するという役割がある、と考えたからです。

 

続いて、「悪口を言い、実際に嫌い」な状況について検討します。具体的には、4つあります。

 

1.自己正当化したいとき

2.合理化したいとき(嫉妬)

3.自分のコンプレックスが刺激されたとき(同族嫌悪

4.勝ち馬に乗りたいとき

 

まず、1について考えます。これは、いまの自分や、これまでの自分を肯定するために、理解し難い人を「嫌う」という形で否定し、自己正当化するというものです。基本的に、あるコミュニティ内には似たような人が集まります。それは、体育会系でも、サークルでも、意識高い系でも、会社でも、たいして変わらないと思われます。そして、似たような人たちが、似たように生き、似たような幸せを得ていくのを見て、「大学生活ってこんなもんだよね」「仕事ってこんなもんだよね」と、いまの自分と、自分の考え方を肯定していきます。しかし、ふとしたきっかけで、自分とは全く違う生き方をしてきた人と付き合う必要性が出てきます。その生き方は、意味不明で、理解できないものかと思われます。しかも、彼らは「それが正しい」と強く思っているのです。そんなとき、思考に先行し、嫌悪感が出てくるのではないでしょうか。つまり、彼らを「嫌う」、すなわちその人を否定することで、間接的に、自分と、自分のこれまでの人生を肯定していると考えられます。

先の愚痴の例と同じく、仕事できない人やコミュ症を本気で嫌う際も、この論理が当てはまるかと思います。結局のところ、幽霊やゾンビと同じで、理解できないものに対し、人は恐怖や嫌悪感を感じるということなのでしょう。

次に、2について考えます。これは、いわゆる嫉妬です。つまり、嫉妬心を別の問題にすり替え、総体として否定することで合理化を行うということです。例えば、非モテがモテを「いや、あいつは性格が終わってるし」と問題をすり替えて否定してくる場合は、これだと考えられます。

続いて、3について考えます。これは、いわゆる同族嫌悪です。つまり、自分が無意識下で嫌っている自分の要素(例:コミュ症、田舎出身、仕事が遅い)を持つ人が表れ、自分のコンプレックスを客観的に見せられるがゆえに、過剰に否定してしまう、ということです。

最後に、4について考えます。これは、コミュニティ内で支配的な価値観に乗っかることで、自己肯定を行うということです。つまり、みんなが嫌うものを私も嫌っているから、私はこのコミュニティの一員であり(所属欲求の充足)、正しい考え方をしている(自己肯定)、という思考です。

個人的に面白いと思うのが、「共通の敵を作りたいだけ」と違い、この場合は「真剣に嫌っている」ということです。例えば、中学の頃みんなから尊敬されていた先輩をかつては好いていたとしても、高校では腫れ物扱いだった場合、勝ち馬に乗って「心の底から嫌いになる」こともあるでしょう。ここで言いたいのは、一時の感情なんて、環境によってすぐ変わってしまうということです。人間の弱さ、非合理性が垣間見えますね。

 

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以下は余談になります。個人的に、僕は「嫌い」という言葉が苦手です。それは恐らく、僕の人生哲学と少し関係しています。僕の根底には、「人は生きたいように生きればいいじゃん」という思想があります。つまり、構造主義を信じる一介のりばたりあんとして、多様な価値観を認められるという特殊能力持ちなわけです。だからこそ、他者否定の意を伴う「嫌い」という言葉が苦手なのです(ちなみに、ここでの「苦手」という言葉は、「僕はそれに合わせられない」の意です)。

それでも、「理解できない」「合わない」人や思想と交流せざるを得ない瞬間はやってきます。そんなとき、「嫌う」ことも「悪口を言う」こともなく、いかにして僕がストレスを軽減しているかについて分析してみました。

 

1.距離をおく

友達にもならず、その考えに深入りすることもなく、離れます。もしくは、かるーい、上辺だけの付き合いをします。仮に、そういった人たちと密な交流が強いられたとしても、僕は一晩寝たらストレスが消えるという特殊能力も持っているので、すぐに忘れることができます。とはいえ、どうしても離れることができない、日々顔を突き合わせざるを得ない瞬間は必ず来ます。一晩寝て回復しても、また翌日顔を合わせざるをえないわけです。そんなときには、2を行使します。

2.違いに興味を持つ

ある種の合理化なのですが、彼我の差を生み出す背後の論理に興味を持つわけです。最近気づいたのですが、「理解できない」は常に甘えです。どんな人であれ、どんな考え方であれ、必ず彼らなりの論理があります。論理を理解することができれば、それらは意味不明なものではなくなり、客観視が可能になります。たとえ、それがいかに非合理的なものであろうとも、僕は非合理性も含めた人間性というものが好きなので、その価値観を認めることがだいたいできるわけです。ニーチェとは違うのです。

この2つのプロセスによって、ストレスは軽減されます。

 

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まあ、ネタばらしをしますと、あまりに「悪口」と「嫌う」の文化が理解できなかったために、この記事を書くことで僕は2を行使したわけです。また、自己のストレス回避手法を明文化したことで、今後、よりいっそうそれの行使が容易になる気がします。
人間の防衛機制の1つに、「昇華」というものがあります。基本的には、満たされない欲求や苦痛を「運動」や「芸術」にすり替える、という内容ですが、「論理化」っていうのも、あっていいんじゃないですかね。

自己否定という、プライドの高いメタ的自己防衛

よく、現在の自分を否定している人がいます。彼らが謙虚というわけでもなく、ただ自分を否定しているだけの人です。

この種の自己否定はどんな世界にも見られます。例えば、

・体育会系なのに「体育会系に入ってるのとかクズしかいねーよ」と言う

・喫煙者なのに「タバコ吸ってる奴とか社会のゴミだと思う」と言う

・社畜なのに「正直、働きすぎてる奴は人生楽しめてないと思う」と言う

・意識高い系なのに「思うに、意識高い系は目的と手段を履き違えている」と言う

これらは、そこまで特殊でもない、わりとありふれた行為です。

しかしながら、自己否定というのは本来起こりえない行為のはずです。皆さんも中学高校の保健体育で学んだように、人間には無数の防衛機制があります。抑圧とか、退行とか、昇華とか、聞き覚えがあると思います。それらは自己肯定のための機能であり、僕たちがつらーい現実から目を背けるのに一役買っています。逆に言えば、そんなものを用意しなければならないほど、僕たちは自らを肯定しなければ生きていけない生物です。にもかかわらず、この現代社会において、自己否定とは非常にありふれた行為なのです。

さらに面白いことに、自己否定者には現状変革の意志が無い場合が多くあります。つまり、現状を否定して未来に進む、というわけでもないのです。現状が変わらないことを知りながら、現状を(ひいては未来をも)否定する。一体これは、どういった心理的メカニズムなのでしょうか。今日は、彼ら「現状変革の意志の無い自己否定者」を考察してみたいと思います。

 

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そもそも、現在の自分の否定(=広義の自己否定)には2パターンあると考えています。それは以下の通りです。

1.所属コミュニティの否定

2.狭義の自己否定

1番目は、わりとわかりやすいと思います。自分ではなく、自分が所属しているコミュニティだけが悪い、というある種の言い換えです。先の例を使うならば、

「体育会系に入ってるのとかクズしかいねーよ(俺は違うけど」

「思うに、意識高い系は目的と手段を履き違えている(僕は違いますが」

こういった具合です。責任を所属コミュニティに転嫁するという手法は、非常に面白い防衛手法であり、わりと考察しがいがあるとは思います。しかし、今日のテーマは自己否定なので、それらは割愛します。いつかやるかもしれません。

 

問題は2番目です。この場合、彼らは問題を他人やコミュニティになすりつけず、自ら引き受けます。そもそも、なぜ彼らは自己否定まで至ってしまうのでしょうか。まずは、その流れを追ってみようと思います。

1.破綻の知覚:他者との比較や他者からの言葉により、自分の行動が破綻していると知覚する

2.費用対効果の知覚:破綻を是正するコストがリターンを上回っていると知覚する

3.(将来的なものも含めた)自己否定

ここで重要なのは2です。コストとリターン、と書くと非常に合理主義的な人間のみに当てはまるように見えますが、そうでもありません。俗っぽい例を出すと、

「仲直りしたほうがいいのはわかってるけどさ。でもぶっちゃけあいつと仲直りするとかなんかめんどいから無理だわ」

この場合、「コスト=なんかめんどい」で「リターン=仲直りしたことによるコミュニティの平穏など」です。もう少しかっこいい例を出すと、

「一生このド田舎で暮らすなんて、考えるだけでも憂鬱になります。こんな制約だらけの僕の人生、恵まれているわけがありません。しかし、家業を守るためには仕方のないこと。これも長男のつとめですから」

この場合、「コスト=家業を守れなかった場合の親類などからの圧力、やりたくもない家業を守っている自分かっこいいという自己陶酔の放棄、など」で「リターン=都会でたのしい!など」です。つまり、自己否定者は、「自己変革をしない」という選択をしていることで、自己変革に伴うコストを(少なくとも相対的には)高く見積もっていることがわかります。

次に、自己否定のメリットを考えてみます。僕の考えでは、以下の2つが挙げられます。

1.それ以上の否定を防げる
2.破綻していること自体は理解しているという立場に立てる

1番目により、「私は私が間違っていることは理解している。だから、これ以上の議論は必要ない」と主張することができます。自分の欠点を指摘されたときにも、よく使われるテクニックですね。

そして、2番目により、その破綻と距離を取ることができます。つまり、「私は(その否定先)とは違う。少なくとも破綻していることを理解している」というスタンスを取れるのです。

この前、ネットで時間を浪費している際に見つけた言葉で印象的だったのが、「『自分が相手の位置を把握していて相手には把握されていない』という状態を作ることで、安易に優越感を得ることができる」というものです。これをこの事例に当てはめると、「自分は自分の位置を把握しているが、否定先の他人には把握されていない」ということで優越感を感じられる、ということになるのでしょう。

 

以上をまとめると、自己否定にはある種の正当性があることがわかります。つまり、1.自分の行動が破綻していることを理解してしまった。けど、2.今の自分を変えるのはだるい。だから、3.他者からの否定を防ぎつつ、4.同様にカテゴライズされる奴らとは違うんだぜ、ということを主張し、5.ちょっぴりの優越感を得る。ということです。

考えてみると、そもそも、この世に純粋潔白、自己否定の余地がないほど完璧な人間なんて、いないと思います。ここからは勘ですが、自己否定しがちな人というのは、そこそこ頭がよく、馬鹿げたことに自分の人生を考えなおしてしまう人が多いのではないでしょうか。でも、自分の行動は変えられなかったり、変えるのが恐ろしかったり、面倒くさかったりする。そんな人たちのいたいけなプライドを守るために、「自己否定」というのは存在しているのだろうと思います。

 

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なんとなくですが、僕が所属する意識高い界隈というのは、最近、自己否定を「求めている」気がします。例えば、あえて意識高い系を嫌う記事をシェアしたり、ブックマークしたり、自ら記事にしたり、という行為にそれが表れている気がします。これは、時間とともに意識高い界隈の自己矛盾が露見する中で、せめてもの自己防衛としての自己否定が盛んになっているからではないでしょうか。実に合理的で、人間らしい動きだと思います(疑われるかもしれませんが、これを否定するつもりは全くありません)。

これらを記事にすることで、僕もそこから距離を取って、自己防衛をはかるのでした。完

「意識高い」系ゆるふわアイデンティティ

昨日、NLM(Next Leaders Meeting 2013)というイベントに参加してきました。いやー、すごい人もいるもんですね。同年代の人たちが、強い意志を持って、真剣に社会を変えようとしている。賞賛とちょっぴりの嫉妬がいい感じに混ざり合い、僕としても「こいつらに負けたくない」という気持ちが湧いてきます。球磨川くんみたいなノリです。自己啓発にはもってこいでした。

とはいえ、あまりの香ばしさに「えー」となるような人たちも相当数いました。話を聞いているだけで、こっちがどぎまぎしてしまうような、アレです。もはや、一周回って、彼らの精神構造が興味深いと思えてきたほどです。そこで、今日はその点、つまり括弧付き「意識高い」系の行動原理について考察してみようと思います。

 

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個人的に、「意識高い」系の人というのは、新興宗教の信者に似ていると思っています。それは以下の3点からです。

・組織から強い自己承認エネルギーを得ている

・狭いコミュニティ内でお互いを承認しあっている

・結果、自分の価値観を絶対視しがちになる

1点目がわかりにくいので具体化します。例えば、組織のビジョン・ミッションの素晴らしさや、イベントの企画・実行による社会的価値、団体の連帯感などを、自身の価値に置き換え、「自分すごい!」と自己承認を行うことです。

そして、3点目により、自分とは違うコミュニティに属する人の話を聞き入れなかったり、場合によっては見下していたり、時には「私が彼らの意識を変えてあげる!」などと考えていることもあるようです*1。

以下は推論です。恐らく彼らは、確固たる意志もなく、(当然ながら)その意志を支えるストーリーやロジックも十分にないままに、意識高い系組織に所属してしまったのではないでしょうか。そして、意識高い系組織特有の非常に強力なエネルギーを浴び、それを何も考えずに受容してしまっているがゆえに、彼らのゆるふわアイデンティティはあっという間に組織色に染まり、それを原動力に大学生活を謳歌している*2。そんなところだと考えられます。

昨日NLMに参加していて気づいたのは、彼らは「その活動を始めた理由」という問いに対して答える際に、必ず「その組織や活動が素晴らしい理由」や「その活動をしていて感動したエピソード」について語ります。つまり、質問に対する答えをすり替えてくるわけです。これは、彼らには答えるべき「その活動を始めた理由」は特に無いからだと推測されます。

ちなみに。もちろん、そうでない人もたくさんいます。つまり、括弧付き「意識高い」系ではなく、純粋に意識が高い人です。彼らは確固たる意志を持って組織を創設もしくは所属し、自らの夢のために組織を「利用」しています。一枚皮を剥げば普通の人が出てくるような「意識高い」系の人とは違い、彼らは正真正銘、尊敬すべき「変な」人です。僕みたいな普通の人には到底獲得することのできない凄みを抱えて、夢を持って生きています。彼らには、彼らなりの形で、是非夢を叶えて欲しいと思っています。

 

1:僕は、意識を変える機会の提供を否定しているわけではありません。むしろ、多様な機会と触れ合い、視野を広げること自体は素晴らしいことだと思っています。しかし、「お前の考えは間違いだ!こっちに変えろ!」っていうのは、完全にただのお節介だと思っています。自分の考え方を決めていいのは、自分だけです。

2:余談ですが、自尊心供給に関する似たような現象は、体育会系にも多く見られる気がします。 この点に関しては一橋大学の偉大なOB、かねどーさんが自身のブログで(僕のよりはるかに優れたファクトとロジックに基づき)分析しているので、興味がある方は是非ご覧下さい。

参考記事:敗者復活装置としての体育会 - かねどーのブログ

 

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で、ここにきてちゃぶ台をひっくり返すようで恐縮なのですが、僕は「意識高い」人を否定するつもりはありません。と言うのも、彼らにとっては、なんだかんだでそれは「幸せ」だろうと思われるからです。合理化を駆使しつつ、その理念を一生自己に投影し続けられるならば、きっと彼らの人生は本物と見分けがつかないくらいに「幸せ」なのでしょう。また、そこまで徹底しなくとも、人生の早い段階で色々と挑戦してみる、というのは悪くない選択のように思えます。ただし、僕に関して言えば、その危うさに途中で気がついてしまいそうなので、その選択を続けることはできませんでした。

まあ、人は、他人に迷惑をかけない程度に、生きたいように生きればいいじゃん、というオチで話を終わらせたいと思います。人生なんて、しょせんゆるふわなものだってことで。

「既得権益打破!」という潮流に隠れ、人知れず根を張る若干の欺瞞

一般的に、既得権益は嫌われています。なぜなら、既得権益とは、非常に自分勝手なものだからです。自分と、自分の身の回りさえよければ、他人が不利益を被ろうと構わない。そのような考えに、既得権益は支えられています。

近年、日本全体で、「既得権益打破」が重要なトピックとして扱われています。大阪では、これを唱える橋下徹さんが、公務員や文化団体の既得権益に切り込み、一定の評価を受けているようです(諸説あり)。国政でも、(既得権益以外の問題もあるにせよ)TPPや電力自由化、年金などが話題に上がっています。「既得権益を打破できれば機会の平等が得られる、経済が成長する、国が豊かになる」そういった思いを込めて、日本は既得権益打破に向かっています。

僕自身、りばたりあんとして新自由主義を支持しているため、既得権益への切り込みは賛成です。特に、これから就職する身としては、解雇規制は早急に緩和して欲しいと思っています。

とはいえ、近年のこの潮流が、すこしだけ、不自然なものに見えるのもまた事実です。というのも、真の「機会の平等」なんて、既得権益を打破し続けても存在し得ないし、そもそも僕たちはもっとずっとでかい既得権益を抱えて生きていかなくてはならないからです。

 

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僕たちは、生まれながらにして不平等です。世帯年収も、美醜も、能力も、何もかも人によって違います。しかし、規制を取っ払って、機会を均等にすれば、「自分に見合った」教育が、そして、職が、自然に手に入ります。

という幻想が、日本ではあまりに幅を利かせすぎている気がします。

僕たちは、生まれながらにしてもっともっと不平等です。実際問題として、親が受けた教育水準と現在の職は、子の教育機会と職の選択にかなり大きな影響を与えます。例えば、大卒の親は、子が当然大学へ行くものと考える場合が多いでしょうから、子にそれに見合った教育を与え、期待をかけます。そのとき、子は、何も不自然に思うことなく教育を受け、何も不自然に思うことなく大学へ行き、何も不自然に思うことなく大企業に就職し、親と同じ「社会の上位層」に君臨します(無論、例外も少なからずありますが)。

それに対して、「そうでない」親は、そもそも子の教育にそこまで興味がない場合があります。このとき、大多数の子は、自ら高い教育水準を望まなくなります(望めない、ではなく)。仮に、親が子の教育に興味があっても、正しい教育手法がわからず、非効率的な教育を繰り返すことで、そこまで良い結果を出せないことも多いかと思われます。
よく使われる話で恐縮なのですが、15歳以上の日本人のうち大卒が占める割合に関する認識と現実のギャップが、これをよく示していると思います。平成22年国勢調査より、大卒が占める割合は19.9%です。短大・高専卒を含めても34.7%です。ここで問題なのは、高卒・中卒が多数派だと、僕たちは肌感覚で理解していない、ということです(このブログの読者層は大卒(及び大卒予定者)が中心だと勝手に判断しています)。その「みんな行ってる」「私も行った」「子も当然行く」という思いが、社会階層を固定化している。そう考えられるのではないでしょうか。

僕たちは、形式的には平等な選抜過程をくぐり抜けることで、築いた地位を自らの努力と実績によるものだ、と思っています。しかし、あくまでそれは「勝って当然の出来レース」に近いものがありそうです。

 

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話を「既得権益打破」に戻します。確かに、自由主義社会の下では、既得権益打破による機会の平等の確保は非常に重要です。そのために、わかりやすいところから崩していくのは正着手と言えるでしょう。

しかしながらこの社会には、もっとずっと大きな既得権益が、人知れず根をはっています。生まれた瞬間から、至る所に、既得権益は満ちています。正直な所、完全な「機会の平等」が存在するなんて、共産主義と同じレベルの妄想だと思います。ですから僕たちは、今こそ新自由主義の理念に立ち戻るべきなんだと思います。つまり、「市場を代替する資源配分のメカニズムは、存在しない。少なくとも、社会主義や国営企業は、市場の欠陥を是正する手段にはなりえない。だからやむを得ず市場システムに依存するしかない(引用:経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか)」ということです。

僕たちが依存している資本主義や自由主義という概念は問題だらけで、ちょっと既得権益を打破したくらいで改善されるものでもない。僕たちの生活に根ざす真の既得権益には何ら影響がない。完全な機会の平等も保障されない。僕たちは、既得権益と共存せざるを得ない。それらを認識して始めて、日本は「機会の平等」に向かってやっと歩を踏み出せるのではないでしょうか。なんか、そんな気がします。

 

 

参考文献:

 

中盤の階級再生産に関する議論は、かなりこの本を参考にしています。この本は定量的な側面からのロジックも充実しているので、社会階層に関する研究に興味がある方は是非。ただ、出版が2000年なので、扱われているデータがちょっと古いです。

インスタントな幸せは、実はとても気持ち悪いものなのかもしれない

ある日のことです。僕は、「人間らしさとはなにか」という問いについて考えていました。そしたら、いつの間にやら「幸せ」について頭を悩ませていました。ほんとに、こいつは僕を困らせる究極のテーマです。以下は、札幌住み法学徒Iくんとの議論を経て、問いが変質していくまでのプロセスを述べたものです。そして、その結果得られた結論がこのブログタイトルだ、というわけです。

ちなみに、僕は社会学的に定義される「人間」について、しっかりと学んだことはありません。せいぜい、高校の倫理で習った、パスカルの「人間は考える葦である」くらいのものです。本文中に岸田秀の名前が出てきますが、それは事後的にちょびっと知っただけのものです。ですから、以下の議論は、社会学者や哲学者からすれば全体的に(笑)が付けられるかもしれません。まあ、だからなんだ、って話なんですけどね。

 

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そもそも、僕が「人間らしさとはなにか」について考え始めたのは、ある本を読んだのがきっかけです。より具体的には、その本の最終章のテーマでもある、社会学的にみた人工知能とはなにか、という問いこそが直接の要因です。それまでは、人間とその他の存在を分けるのは「高度な言語の獲得能力」だと思っていました。しかし、仮にこの能力を獲得できるロボットが存在するならば、人間とロボットの違いとは何なんだよ、という話になってしまいます。そこで僕は、人間と人間以外の動物との違い、及び人間とロボットの違いを包括するような「人間らしさ」の答えを探り始めました。

まず、無知蒙昧な僕が真っ先に思い浮かんだのは、「人間は合理的な存在である」とする説です。高度な思考能力を持つ人間は、様々な状況で、俯瞰的視野から合理的な判断を下すことができます。しかし、少し考えれば、これはおかしいことがわかります。人間は、合理的な側面もある一方、感情に流されるなどして、様々なところで非合理的な行動をも取ります。しかも、合理的に、いわゆる損得勘定で物事を判断しがちな人は、「人の心がない」とか「ひとでなし」とか呼ばれたりします。すなわち、損得勘定を超えたところにある、ある種の非合理性に、人は「人間らしさ」を見出していることが多々あるのです。したがって、上記の説のほぼ真逆である、「人間は非合理的な側面を持つ存在である」という説にある種の信憑性が湧いてきます。

とはいえ、問題はそう単純でもなさそうです。ここでIくんが指摘したのは、「合理的」という言葉の意味です。曰く、どんな時でも、人間は合理的であると。そもそも、「合理的である」とは、何かしらの論理的法則に基づいていることを表します。これをふまえると、一見非合理的に見える行動(例:かなり疲れていたが、電車内で辛そうにしていたおばあさんに席を譲ってあげた)にも、そこには何かしらの理由(例:承認欲求、一日一善という自らに課した義務、etc)があるため、その意味で人間は非合理的な側面を持ち得ない、ということです。

そして、Iくんが重ねて指摘するのは、手段と目的に関する倒錯です。わかりやすい例が、性行為における避妊です。性行為から得られる結果(=妊娠)ではなく、この行為自体が目的化している、ということです。このような、岸田秀が言うところの「本能の壊れた」倒錯状態がこそが、人間が人間たる所以ではないか。これがIくんの主張でした。

しかしながら、よくよく考えてみると、これもまた変な話です。僕たち人間は、別に倒錯したくて倒錯してるわけではありません。確かに、結果的に倒錯している場合もあるのかもしれませんが、もともとは個々の欲求を満たそうとしているに過ぎないのです。快感だけを求めて性交する人間は妊娠を回避すべく避妊しますが、たくさん子どもが欲しい人間は避妊しません。名誉を守りたがる死にたがりはいつの間にかハラキリして死んでいますが、お金持ちの生きたがりはどんな手段を用いても生きたがります。つまりは、個々の欲求、より高次な言い方をすれば、行動原理たる「個々が定義した幸福」に基づき、人間は動いています。結論として、人間の特殊性、すなわち「人間らしさ」とは、「幸福を自らで定義できること」なのではないか。それが、「人間らしさとはなにか」という問いを議論して見えてきた答えでした。

 

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上記の議論はこれで終わり、あとは旧パボッツでビリヤード(結果は5戦1勝4敗)してIくんとはさらばしたのですが、その後、ある思いがふつふつと湧いてきました。それは、「インスタントな幸せ」についてです。以前僕は、この記事で、自分の人生について考えない生き方、及びそこから得られる「インスタントな幸せ」について、肯定しました。なぜなら、幸福追求に伴うリスクが高すぎるからです。

しかし、上記の議論を経て、「インスタントな幸せ」がなかなか気持ち悪いものに見えてきました。僕は所謂りばたりあんなので、今でも「インスタントな幸せ」の享受自体を否定するつもりはありません。でもそれって、自分にとっての幸せが何か真剣に考えない生き方って、人間的なものなのでしょうか?ロボットや動物と違わないのでは?最近流行りの言葉を借りるならば、「でも……それじゃまるで……まるで家畜じゃないか!」というやつです。なんだか、ニーチェがいうところの畜群道徳の気持ち悪さを、少しだけ垣間見た気がします。まあ、だからなんだって話なんですが。

 

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むかしは、哲学があまり好きではありませんでした。意味不明な言葉を並べ、思考する必要性が薄いものばかり議論する、わりとくだらない学問だと思っていました。でも今は、ちょっとだけ、哲学が好きです。就活を終え、本を読んでいる間に、どうやらネガティブ中二病を発症してしまったみたいです。人生とは、よくわからないものですね。

 

参考文献:

人工知能との関連でこの本について触れましたが、それ以外も(むしろそれ以外のほうが)面白いです。特に、第四章の犯罪心理と、第五章の愛と所有はおすすめです。人間社会に満ちる非合理性について、かなり面白い切口から触れています。宗教や犯罪心理、愛情などに興味がある人、夏休み暇すぎてなんか一冊面白い本読みたい人、是非ご一読を。

ロールモデルの罠

社会には様々な「凄い人」がいます。誰であれ、一度くらいはそういう人に会ったことがあるはずです。もちろん僕もあります。彼らは、その凄さゆえに、しばしば尊敬の対象になり、場合によっては目標となります。 

そして、目標としての「凄い人」は、一般にロールモデルと呼ばれるようです。僕の周りでも、たくさんの人が各々のロールモデルを持っています。しかし、なぜそのロールモデルを採用したのか?その生き方が本当に最良の道なのか?という問いには、案外答えられない場合も多いようです。

以下は一例です。僕には、ある起業家に心酔している、非常に意識の高い友達がいます。彼はその起業家をロールモデルにしており、よく「**(その起業家の名前)のようになりたい!」と口にします。彼にそのロールモデルの凄さについて尋ねると、熱っぽく色々なことを語ってくれます。ある日、不意に気になって、質問をぶつけてみました。それは、なぜそのロールモデルなのか、なぜ他の生き方ではダメなのか、というものでした。すると、なんだか急に歯切れが悪くなってしまいました。僕はチキンなので、それ以上は怖くて追求できずに、適当に流してその話を終わらせてしまいました。以下は仮説にすぎませんが、恐らく、彼がそのロールモデルを採用しているのは、その起業家に対する純粋な憧れであり、それ以上の合理的な理由(他の選択肢を排する理由など)は特に無いのだろうと思われます。

もちろん、上記は一つの例にすぎません。しかし、似た事例は結構多いのではないかと考えています。実際のところ、社会の前線で活躍している人は、だいたい「凄い人」です。起業家も科学者も大学教授もプログラマーもエリート社畜も、みんな凄いんです。とりわけ、まだ社会を十分に知らない、僕らのようなちっぽけ大学生にとっては、(特にベンチャーで働いているような「イケイケな」)社会人が魅力的に映るのは、仕方のないことのように思えます。だから、つい深い考えも無しに「この人みたいになりたい!」と思ってしまう気持ちはよくわかります。

しかしながら、ロールモデルの設定をそんな簡単にしていいものなのでしょうか。ロールモデルの設定とは、途中で変更可能とはいえ、人生の方向性を決める意思決定であり、時には大学生活を、場合によっては残りの一生を左右する可能性もあります。確かに、「凄い人」を尊敬したくなるのは当然です。しかし、熟慮もなしに、彼らと同じような道を歩もうとするのは、デメリットが大きすぎると思えてなりません。

 

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そもそも、彼らはなぜ、ロールモデルを即断できてしまうのでしょうか。以下、仮説ですが、2つの理由を考えました。

1つ目が、「他の世界を知らない」からです。非常に狭いコミュニティの中で活動したり、限られた人とだけ話していることで、視野が極端に狭くなっているということが考えられます。その結果、自分の意思決定を疑わない、もしくは疑えるような状況にない、という事態が発生している可能性があります。

2つ目が、「論理ではなく感情で意思決定をしている」からです。長期的な意味での成功を得るためには、短期的な感情に左右されない、意思決定に関する盤石な論理が必要不可欠である、と少なくとも私は考えていますが、彼らにはそれが欠けていると思われます。多くの場合、先に挙げた例のように、単なる「憧れ」が先行していると見受けられます。

さらに、以上2つの理由により、強力な確証バイアスが働くものと予測されます。具体的には、その意思決定にとって、より都合のいい情報とだけ触れ合うようになり、自分の虚ろな信念が補強される、ということです。結果、ただの量産型(劣化型)**さんと化してしまうのではないでしょうか。そして、仮にその意思決定プロセスを問いただされても、それが単純な「憧れ」であると認めない、もしくはそれを認めたところで問題性を感じない、という状況に陥る。そういう関係性にあるのではないかと考えられます。

 

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では、このような状況を回避するためには、どうすればいいのでしょうか。僭越ながら、僕自身十分に実行できているわけでもないのですが、ひとまずの考えを以下にまとめました。今のところ、考えは2つあります。

1つ目が、色々な世界を知ることです。社会には、様々な考え方を持った無数の人がいます。本を読み、色々な人と出会い、多くのコミュニティを持つことで、多くの選択肢の中から自分の生き方を決めていけるはずです。そうなれば、ロールモデルを即断してしまうこともないでしょう。

2つ目が、上記を達成した上で、自分にとっての「幸せ」を定義することです。自分はどういう人間で、どういう生き方が最善なのか。無数の選択肢を検討した上で、揺らがぬ自己を確立できれば、不用意な意思決定をすることはなくなるでしょう。まあ、そう簡単に実行できるものでもないのですが(関連記事:何のために生まれて 何をして生きるのか )

 

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終わらない確証バイアスの中で、自分に都合のいい情報だけ集めて悦に浸る。そして、お互いに承認しあって傷を舐め合う。この生き方、全否定するつもりはありませんが、客観的に見て、あまり有益ではなさそうです。僕自身よくやりがちなので、これはある意味自虐的な記事と言えるかもしれません。(´・ω・`)

あと、真っ当な読み方をすれば誤解はしないと思いますが、ロールモデルの設定自体を否定しているわけではありません。明確な目標設定が高いモチベーションを生む、というのは、学術的にも正しいとされています。僕も含め皆さんが、正しいロールモデル設定で、ナイスなロールモデル生活を送ることを、心よりお祈り申し上げます。