ひまじんの日記

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インスタントな幸せは、実はとても気持ち悪いものなのかもしれない

ある日のことです。僕は、「人間らしさとはなにか」という問いについて考えていました。そしたら、いつの間にやら「幸せ」について頭を悩ませていました。ほんとに、こいつは僕を困らせる究極のテーマです。以下は、札幌住み法学徒Iくんとの議論を経て、問いが変質していくまでのプロセスを述べたものです。そして、その結果得られた結論がこのブログタイトルだ、というわけです。

ちなみに、僕は社会学的に定義される「人間」について、しっかりと学んだことはありません。せいぜい、高校の倫理で習った、パスカルの「人間は考える葦である」くらいのものです。本文中に岸田秀の名前が出てきますが、それは事後的にちょびっと知っただけのものです。ですから、以下の議論は、社会学者や哲学者からすれば全体的に(笑)が付けられるかもしれません。まあ、だからなんだ、って話なんですけどね。

 

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そもそも、僕が「人間らしさとはなにか」について考え始めたのは、ある本を読んだのがきっかけです。より具体的には、その本の最終章のテーマでもある、社会学的にみた人工知能とはなにか、という問いこそが直接の要因です。それまでは、人間とその他の存在を分けるのは「高度な言語の獲得能力」だと思っていました。しかし、仮にこの能力を獲得できるロボットが存在するならば、人間とロボットの違いとは何なんだよ、という話になってしまいます。そこで僕は、人間と人間以外の動物との違い、及び人間とロボットの違いを包括するような「人間らしさ」の答えを探り始めました。

まず、無知蒙昧な僕が真っ先に思い浮かんだのは、「人間は合理的な存在である」とする説です。高度な思考能力を持つ人間は、様々な状況で、俯瞰的視野から合理的な判断を下すことができます。しかし、少し考えれば、これはおかしいことがわかります。人間は、合理的な側面もある一方、感情に流されるなどして、様々なところで非合理的な行動をも取ります。しかも、合理的に、いわゆる損得勘定で物事を判断しがちな人は、「人の心がない」とか「ひとでなし」とか呼ばれたりします。すなわち、損得勘定を超えたところにある、ある種の非合理性に、人は「人間らしさ」を見出していることが多々あるのです。したがって、上記の説のほぼ真逆である、「人間は非合理的な側面を持つ存在である」という説にある種の信憑性が湧いてきます。

とはいえ、問題はそう単純でもなさそうです。ここでIくんが指摘したのは、「合理的」という言葉の意味です。曰く、どんな時でも、人間は合理的であると。そもそも、「合理的である」とは、何かしらの論理的法則に基づいていることを表します。これをふまえると、一見非合理的に見える行動(例:かなり疲れていたが、電車内で辛そうにしていたおばあさんに席を譲ってあげた)にも、そこには何かしらの理由(例:承認欲求、一日一善という自らに課した義務、etc)があるため、その意味で人間は非合理的な側面を持ち得ない、ということです。

そして、Iくんが重ねて指摘するのは、手段と目的に関する倒錯です。わかりやすい例が、性行為における避妊です。性行為から得られる結果(=妊娠)ではなく、この行為自体が目的化している、ということです。このような、岸田秀が言うところの「本能の壊れた」倒錯状態がこそが、人間が人間たる所以ではないか。これがIくんの主張でした。

しかしながら、よくよく考えてみると、これもまた変な話です。僕たち人間は、別に倒錯したくて倒錯してるわけではありません。確かに、結果的に倒錯している場合もあるのかもしれませんが、もともとは個々の欲求を満たそうとしているに過ぎないのです。快感だけを求めて性交する人間は妊娠を回避すべく避妊しますが、たくさん子どもが欲しい人間は避妊しません。名誉を守りたがる死にたがりはいつの間にかハラキリして死んでいますが、お金持ちの生きたがりはどんな手段を用いても生きたがります。つまりは、個々の欲求、より高次な言い方をすれば、行動原理たる「個々が定義した幸福」に基づき、人間は動いています。結論として、人間の特殊性、すなわち「人間らしさ」とは、「幸福を自らで定義できること」なのではないか。それが、「人間らしさとはなにか」という問いを議論して見えてきた答えでした。

 

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上記の議論はこれで終わり、あとは旧パボッツでビリヤード(結果は5戦1勝4敗)してIくんとはさらばしたのですが、その後、ある思いがふつふつと湧いてきました。それは、「インスタントな幸せ」についてです。以前僕は、この記事で、自分の人生について考えない生き方、及びそこから得られる「インスタントな幸せ」について、肯定しました。なぜなら、幸福追求に伴うリスクが高すぎるからです。

しかし、上記の議論を経て、「インスタントな幸せ」がなかなか気持ち悪いものに見えてきました。僕は所謂りばたりあんなので、今でも「インスタントな幸せ」の享受自体を否定するつもりはありません。でもそれって、自分にとっての幸せが何か真剣に考えない生き方って、人間的なものなのでしょうか?ロボットや動物と違わないのでは?最近流行りの言葉を借りるならば、「でも……それじゃまるで……まるで家畜じゃないか!」というやつです。なんだか、ニーチェがいうところの畜群道徳の気持ち悪さを、少しだけ垣間見た気がします。まあ、だからなんだって話なんですが。

 

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むかしは、哲学があまり好きではありませんでした。意味不明な言葉を並べ、思考する必要性が薄いものばかり議論する、わりとくだらない学問だと思っていました。でも今は、ちょっとだけ、哲学が好きです。就活を終え、本を読んでいる間に、どうやらネガティブ中二病を発症してしまったみたいです。人生とは、よくわからないものですね。

 

参考文献:

人工知能との関連でこの本について触れましたが、それ以外も(むしろそれ以外のほうが)面白いです。特に、第四章の犯罪心理と、第五章の愛と所有はおすすめです。人間社会に満ちる非合理性について、かなり面白い切口から触れています。宗教や犯罪心理、愛情などに興味がある人、夏休み暇すぎてなんか一冊面白い本読みたい人、是非ご一読を。