ひまじんの日記

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自己否定という、プライドの高いメタ的自己防衛

よく、現在の自分を否定している人がいます。彼らが謙虚というわけでもなく、ただ自分を否定しているだけの人です。

この種の自己否定はどんな世界にも見られます。例えば、

・体育会系なのに「体育会系に入ってるのとかクズしかいねーよ」と言う

・喫煙者なのに「タバコ吸ってる奴とか社会のゴミだと思う」と言う

・社畜なのに「正直、働きすぎてる奴は人生楽しめてないと思う」と言う

・意識高い系なのに「思うに、意識高い系は目的と手段を履き違えている」と言う

これらは、そこまで特殊でもない、わりとありふれた行為です。

しかしながら、自己否定というのは本来起こりえない行為のはずです。皆さんも中学高校の保健体育で学んだように、人間には無数の防衛機制があります。抑圧とか、退行とか、昇華とか、聞き覚えがあると思います。それらは自己肯定のための機能であり、僕たちがつらーい現実から目を背けるのに一役買っています。逆に言えば、そんなものを用意しなければならないほど、僕たちは自らを肯定しなければ生きていけない生物です。にもかかわらず、この現代社会において、自己否定とは非常にありふれた行為なのです。

さらに面白いことに、自己否定者には現状変革の意志が無い場合が多くあります。つまり、現状を否定して未来に進む、というわけでもないのです。現状が変わらないことを知りながら、現状を(ひいては未来をも)否定する。一体これは、どういった心理的メカニズムなのでしょうか。今日は、彼ら「現状変革の意志の無い自己否定者」を考察してみたいと思います。

 

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そもそも、現在の自分の否定(=広義の自己否定)には2パターンあると考えています。それは以下の通りです。

1.所属コミュニティの否定

2.狭義の自己否定

1番目は、わりとわかりやすいと思います。自分ではなく、自分が所属しているコミュニティだけが悪い、というある種の言い換えです。先の例を使うならば、

「体育会系に入ってるのとかクズしかいねーよ(俺は違うけど」

「思うに、意識高い系は目的と手段を履き違えている(僕は違いますが」

こういった具合です。責任を所属コミュニティに転嫁するという手法は、非常に面白い防衛手法であり、わりと考察しがいがあるとは思います。しかし、今日のテーマは自己否定なので、それらは割愛します。いつかやるかもしれません。

 

問題は2番目です。この場合、彼らは問題を他人やコミュニティになすりつけず、自ら引き受けます。そもそも、なぜ彼らは自己否定まで至ってしまうのでしょうか。まずは、その流れを追ってみようと思います。

1.破綻の知覚:他者との比較や他者からの言葉により、自分の行動が破綻していると知覚する

2.費用対効果の知覚:破綻を是正するコストがリターンを上回っていると知覚する

3.(将来的なものも含めた)自己否定

ここで重要なのは2です。コストとリターン、と書くと非常に合理主義的な人間のみに当てはまるように見えますが、そうでもありません。俗っぽい例を出すと、

「仲直りしたほうがいいのはわかってるけどさ。でもぶっちゃけあいつと仲直りするとかなんかめんどいから無理だわ」

この場合、「コスト=なんかめんどい」で「リターン=仲直りしたことによるコミュニティの平穏など」です。もう少しかっこいい例を出すと、

「一生このド田舎で暮らすなんて、考えるだけでも憂鬱になります。こんな制約だらけの僕の人生、恵まれているわけがありません。しかし、家業を守るためには仕方のないこと。これも長男のつとめですから」

この場合、「コスト=家業を守れなかった場合の親類などからの圧力、やりたくもない家業を守っている自分かっこいいという自己陶酔の放棄、など」で「リターン=都会でたのしい!など」です。つまり、自己否定者は、「自己変革をしない」という選択をしていることで、自己変革に伴うコストを(少なくとも相対的には)高く見積もっていることがわかります。

次に、自己否定のメリットを考えてみます。僕の考えでは、以下の2つが挙げられます。

1.それ以上の否定を防げる
2.破綻していること自体は理解しているという立場に立てる

1番目により、「私は私が間違っていることは理解している。だから、これ以上の議論は必要ない」と主張することができます。自分の欠点を指摘されたときにも、よく使われるテクニックですね。

そして、2番目により、その破綻と距離を取ることができます。つまり、「私は(その否定先)とは違う。少なくとも破綻していることを理解している」というスタンスを取れるのです。

この前、ネットで時間を浪費している際に見つけた言葉で印象的だったのが、「『自分が相手の位置を把握していて相手には把握されていない』という状態を作ることで、安易に優越感を得ることができる」というものです。これをこの事例に当てはめると、「自分は自分の位置を把握しているが、否定先の他人には把握されていない」ということで優越感を感じられる、ということになるのでしょう。

 

以上をまとめると、自己否定にはある種の正当性があることがわかります。つまり、1.自分の行動が破綻していることを理解してしまった。けど、2.今の自分を変えるのはだるい。だから、3.他者からの否定を防ぎつつ、4.同様にカテゴライズされる奴らとは違うんだぜ、ということを主張し、5.ちょっぴりの優越感を得る。ということです。

考えてみると、そもそも、この世に純粋潔白、自己否定の余地がないほど完璧な人間なんて、いないと思います。ここからは勘ですが、自己否定しがちな人というのは、そこそこ頭がよく、馬鹿げたことに自分の人生を考えなおしてしまう人が多いのではないでしょうか。でも、自分の行動は変えられなかったり、変えるのが恐ろしかったり、面倒くさかったりする。そんな人たちのいたいけなプライドを守るために、「自己否定」というのは存在しているのだろうと思います。

 

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なんとなくですが、僕が所属する意識高い界隈というのは、最近、自己否定を「求めている」気がします。例えば、あえて意識高い系を嫌う記事をシェアしたり、ブックマークしたり、自ら記事にしたり、という行為にそれが表れている気がします。これは、時間とともに意識高い界隈の自己矛盾が露見する中で、せめてもの自己防衛としての自己否定が盛んになっているからではないでしょうか。実に合理的で、人間らしい動きだと思います(疑われるかもしれませんが、これを否定するつもりは全くありません)。

これらを記事にすることで、僕もそこから距離を取って、自己防衛をはかるのでした。完