ひまじんの日記

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人を嫌う理由、悪口を言わずにいられない理由

いつでも、どこでも、だれとでも、悪口は盛り上がります。「嫌い」「苦手」「無理」という声が、居酒屋に行けば必ずどこからか聞こえてきます。

なぜここまで、人は人を嫌い、悪口を言わずにはいられないのでしょうか。悪口は、人間関係をややこしくします。人の口はとことん軽いもので、内緒なはずの悪口は一瞬で広まり、いつの間にか関係がこじれています。「言っていいのは言われる覚悟のある奴だけだ」といわんばかりに、悪口は悪口を呼び込みます。ちょっと考えれば、悪口なんて、百害あってちょっとの利しかないのがわかるはずです。

にもかかわらず、今日も明日も、人は人を嫌い、世界には悪口がはびこります。今回は、「嫌い」と「悪口」のメカニズムについて考えてみようと思います。

余談になりますが、今回の記事は、KくんとかNくんとかの意見を参考にしてます。あのコミュニティでは、なんだかこういう話題が比較的多い気がします。

 

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まず、「嫌い」と「悪口」の関係について考えてみます。なぜなら、ここを混同すると、純粋な「嫌い」の感情が捉えにくくなるからです。さっそく見てみましょう。

直感的には、「悪口は『嫌い』の結果生じるもの」と捉えられています。つまり、「俺はあいつのことが嫌いだ。だからあいつの悪口を言うぜ」という論理です。しかし、必ずしもこの論理が当てはまるわけではない、と僕は考えます。以下、「悪口を言っているが、実はあまり嫌いでない」状況について検討します。具体的には、2つあります。

 

1.共通の敵を作りたいとき

2.愚痴を言いたいとき(自己正当化)

 

まず、1について考えます。これは、あるコミュニティ内で共通の敵を作り、悪口を言い合うことで、コミュニティの結束を深めるという行為です。つまり、敵の敵は味方だね!という話です。わりとどうでもいい理由から始まるいじめとかは、これが原因のような気がします。これは「勝ち馬に乗る」ことでもあるのですが、それに関しては後述します。

補足として、これは「会話に窮した場合の共通の話題」にも使われます。経験則ですが、これを多様するコミュニティは、あまり長続きしない気がします。なぜなら、「言っていいのは言われる覚悟のある奴だけだ」といわんばかりに、悪口は、それを言い合うコミュニティ内の誰かの悪口をも誘発するからです。

次に、2について考えます。その人総体としては嫌いではなくとも、1つ1つの行動に理解できないものが含まれている(例:仕事が遅い、試合でエラー、男なのに奢ってくれない)場合、これが発動します。ちなみに、これに「自己正当化」という括りをつけたのは、上記の例は「自分の常識」あるいは「自分が所属するコミュニティの常識」からみた「非常識」(=理解できない行為)なのであって、それらを否定することで自分の常識を肯定するという役割がある、と考えたからです。

 

続いて、「悪口を言い、実際に嫌い」な状況について検討します。具体的には、4つあります。

 

1.自己正当化したいとき

2.合理化したいとき(嫉妬)

3.自分のコンプレックスが刺激されたとき(同族嫌悪

4.勝ち馬に乗りたいとき

 

まず、1について考えます。これは、いまの自分や、これまでの自分を肯定するために、理解し難い人を「嫌う」という形で否定し、自己正当化するというものです。基本的に、あるコミュニティ内には似たような人が集まります。それは、体育会系でも、サークルでも、意識高い系でも、会社でも、たいして変わらないと思われます。そして、似たような人たちが、似たように生き、似たような幸せを得ていくのを見て、「大学生活ってこんなもんだよね」「仕事ってこんなもんだよね」と、いまの自分と、自分の考え方を肯定していきます。しかし、ふとしたきっかけで、自分とは全く違う生き方をしてきた人と付き合う必要性が出てきます。その生き方は、意味不明で、理解できないものかと思われます。しかも、彼らは「それが正しい」と強く思っているのです。そんなとき、思考に先行し、嫌悪感が出てくるのではないでしょうか。つまり、彼らを「嫌う」、すなわちその人を否定することで、間接的に、自分と、自分のこれまでの人生を肯定していると考えられます。

先の愚痴の例と同じく、仕事できない人やコミュ症を本気で嫌う際も、この論理が当てはまるかと思います。結局のところ、幽霊やゾンビと同じで、理解できないものに対し、人は恐怖や嫌悪感を感じるということなのでしょう。

次に、2について考えます。これは、いわゆる嫉妬です。つまり、嫉妬心を別の問題にすり替え、総体として否定することで合理化を行うということです。例えば、非モテがモテを「いや、あいつは性格が終わってるし」と問題をすり替えて否定してくる場合は、これだと考えられます。

続いて、3について考えます。これは、いわゆる同族嫌悪です。つまり、自分が無意識下で嫌っている自分の要素(例:コミュ症、田舎出身、仕事が遅い)を持つ人が表れ、自分のコンプレックスを客観的に見せられるがゆえに、過剰に否定してしまう、ということです。

最後に、4について考えます。これは、コミュニティ内で支配的な価値観に乗っかることで、自己肯定を行うということです。つまり、みんなが嫌うものを私も嫌っているから、私はこのコミュニティの一員であり(所属欲求の充足)、正しい考え方をしている(自己肯定)、という思考です。

個人的に面白いと思うのが、「共通の敵を作りたいだけ」と違い、この場合は「真剣に嫌っている」ということです。例えば、中学の頃みんなから尊敬されていた先輩をかつては好いていたとしても、高校では腫れ物扱いだった場合、勝ち馬に乗って「心の底から嫌いになる」こともあるでしょう。ここで言いたいのは、一時の感情なんて、環境によってすぐ変わってしまうということです。人間の弱さ、非合理性が垣間見えますね。

 

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以下は余談になります。個人的に、僕は「嫌い」という言葉が苦手です。それは恐らく、僕の人生哲学と少し関係しています。僕の根底には、「人は生きたいように生きればいいじゃん」という思想があります。つまり、構造主義を信じる一介のりばたりあんとして、多様な価値観を認められるという特殊能力持ちなわけです。だからこそ、他者否定の意を伴う「嫌い」という言葉が苦手なのです(ちなみに、ここでの「苦手」という言葉は、「僕はそれに合わせられない」の意です)。

それでも、「理解できない」「合わない」人や思想と交流せざるを得ない瞬間はやってきます。そんなとき、「嫌う」ことも「悪口を言う」こともなく、いかにして僕がストレスを軽減しているかについて分析してみました。

 

1.距離をおく

友達にもならず、その考えに深入りすることもなく、離れます。もしくは、かるーい、上辺だけの付き合いをします。仮に、そういった人たちと密な交流が強いられたとしても、僕は一晩寝たらストレスが消えるという特殊能力も持っているので、すぐに忘れることができます。とはいえ、どうしても離れることができない、日々顔を突き合わせざるを得ない瞬間は必ず来ます。一晩寝て回復しても、また翌日顔を合わせざるをえないわけです。そんなときには、2を行使します。

2.違いに興味を持つ

ある種の合理化なのですが、彼我の差を生み出す背後の論理に興味を持つわけです。最近気づいたのですが、「理解できない」は常に甘えです。どんな人であれ、どんな考え方であれ、必ず彼らなりの論理があります。論理を理解することができれば、それらは意味不明なものではなくなり、客観視が可能になります。たとえ、それがいかに非合理的なものであろうとも、僕は非合理性も含めた人間性というものが好きなので、その価値観を認めることがだいたいできるわけです。ニーチェとは違うのです。

この2つのプロセスによって、ストレスは軽減されます。

 

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まあ、ネタばらしをしますと、あまりに「悪口」と「嫌う」の文化が理解できなかったために、この記事を書くことで僕は2を行使したわけです。また、自己のストレス回避手法を明文化したことで、今後、よりいっそうそれの行使が容易になる気がします。
人間の防衛機制の1つに、「昇華」というものがあります。基本的には、満たされない欲求や苦痛を「運動」や「芸術」にすり替える、という内容ですが、「論理化」っていうのも、あっていいんじゃないですかね。