ひまじんの日記

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大学入学後の可能性を潰す罠

あまり見ないようにしていますが、僕はかねどーさんのブログを読むのが好きです。こんなに頭がよくなれたら、きっと世界の見え方も変わってくるんだろうな、と思います(ちなみに、あまり見ないようにしているのは、自分に全く向いていないであろう生き方に憧れそうになるからです)。

その中でも特に好きな記事が、

これから大学に入学する新入生のために - かねどーのブログ

です。非常に含蓄のある内容なので、新入生でなくとも一読の価値ありです。

この記事で語られているのは、「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」ことに対する問題意識です。その中でも特に多いパターンとして、「勉強することを放棄してしまう」ことと、「一つの部活やバイトに強く拘束され、それを大学生活の大半にしてしまう」ことが挙げられています。その上で、この問題への対処法について、かねどーさんの見解が述べられています。

そして、今日僕が考えるのは、「なぜこの問題が起こっているのか」です。以下、かねどーさんの考察をベースに分析を進めるので、先に挙げたリンクから該当の記事を一読頂ければ、より内容を理解しやすくなると思います。というか、最悪この記事は読み進めなくても構わないので、該当の記事は読んでみてください。それくらいオススメです。

 

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早速ですが、分析を始めようと思います。

「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」ことの原因は、大別して2つです。「新入生側の問題」と「環境側の問題」です。まずは、「新入生側の問題」について考えてみようと思います。

 

■新入生側の問題

この問題は、2つに具体化できます。それが、「現状を疑わない」ことと、「現状を疑う(不満を持つ)だけで終わる」ことです。さらにこれらは、新入生(というより大学生、ひいては日本人の多く)が抱える2つの問題に原因を求められると考えます。それが、「主体性がない」ことと「問いの設定ができない」ことです。以下、これらを詳しく見ていこうと思います。

・主体性がない

多くの人にとって、大学入学まで生活とは「与えられる」ものだったと思います。住む場所も、学校も、部活も、与えられた選択肢の中から選ぶだけです。大学も「当然行くもの」として扱われた上で、どこを選ぶか、という問題にすぎなかったはずです(無論例外もあるとは思いますが)。勉強も同じです。興味に従い自ら取り組むものではなく、与えられ、やらなければいけないものだったと思われます。

結局のところ、僕たちは与えられた選択肢から選ぶことに慣れきってしまったのでしょう。それによって、「そういうものだ」として現状に疑いさえ持たない受動的な思考形態が形成されたと考えられます。結果、かねどーさんが言うところの『「人生の先輩」面したがる大二病の上級生』や、『強力なアイデンティティを持つ(ように見える)「意識高い」学生や社会人』の話を、何も考えずに受け入れてしまっているように見受けられます。

・問いの設定ができない

主体性と似てるかなとは思ったのですが、独立させました。これはよく言われる話で、高校までの勉強は「問題が与えられ、それを解く」もしくは「テーマが与えられ、それについて考える」がほとんどであり、「自ら問いを設定する」ことに関しては全く重きを置かれていません。結果、漠然とした不満、不安、疑いを持つことができたとしても、それを「解決すべき問いとして」認識することができなくなっている、と考えられます。

自分はいま何を疑い、それは何が原因なのか。そして、いかにして解決すべきか。これら非常に重要な問いが立てられなければ、現状に甘んじるか、考え無しの無謀な行動を取るしかありません。結果として、言語化できない不安感を払拭すべく、自己承認や自己肯定を求めコミュニティへの所属を安易に決定してしまったり、誰かに付け込まれてしまうといった、新しい問題を引き起こしているように思えます。

 

■環境側の問題

ここでは、新入生を取り巻く外部環境を3つ考えてみます。同じ学生と、大学と、社会です。まずは学生について考えます。

・学生

入学後、新入生は、上級生から括弧つき「正しい大学生としてのありかた」に関する講義を拝聴します。このあたりはかねどーさんの記事でも指摘されているので省略します。余談ですが、上級生は新入生に「正しい大学生としてありかた」を語ることを通し、逆に自己を教化していると思われます。結局のところ、みんな自己正当化が大好きなのでしょう。

そして、同級生と「正しい大学生のありかた」を相互承認します。これは、閉鎖的コミュニティではどこでも見られる現象です。「勉強しない」「ひたすら遊ぶ」「狭いコミュニティ内で暮らす」ことが正しいありかただと、お互いに確認しあい、満足します(書くまでもありませんが、当然例外もあります)。

・大学

「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」という問題を、大学側が「認識していない」もしくは「認識しているが対処していない」場合がかなりあると思われます。この原因を探るべく、大学という組織に影響を及ぼしうるという観点から、同窓会組織(OB・OG)と教授陣の2つを見てみようと思います。

まず、同窓会組織を見てみます。彼らもまた過去に「自分の可能性を自ら狭めた」被害者であり、かつ、多くの場合それに違和感を持っていません。違和感を持っていたとしても、自らがそうだったこともあり、”必要”悪と認識している場合もあるでしょう。むしろ、自己正当化のために、それは正しいもので、変えるべきでないと考えている場合も十分にあります。結果として、問題の再生産が繰り返されていると考えられます。

次に、教授陣を見てみます。彼らが問題を認識していないとすれば、その最大の原因は彼ら自身の人生経験の欠如に求められると考えます。すなわち、大学院入学後教授となり、現在に至るまで極めて同質化された集団内だけで暮らし、自ら多様な価値観との交流を遮断した結果、閉鎖的な環境が「自分の可能性を自ら狭める」という問題を引き起こすことに気づけてはいないのではないのでしょうか。一般的な社会生活を送っていれば、異文化との交流が新たな気付きをもたらすことが必ずあるはずです。しかし、象牙の塔に閉じこもることで、そのような気付きと無縁になってしまっているとすれば、問題の認識に至れないとしても不思議ではありません。

そして、彼らがあえてこの問題に対処していないとすれば、そもそも教育に関心が薄いか、教育に対するインセンティブが低いか、この問題に対処するインセンティブが低いからだと考えられます。とりわけ、専門分野における生徒からの承認を自尊心の足しにしている場合は、専門分野以外の教育的指導は生徒に失望をもたらすリスクが存在する上、仮に教育に成功してもその専門分野以外にも関心を分散させるという結果になるため、実行しにくいのではないでしょうか。

・社会

これも、同窓会組織のケースと同様に、社会全体で問題の再生産が行われているように思われます。また、社会(とりわけ企業)は、「自らの可能性を狭めた」学生を期待している節もあると考えられます。何も考えずに上司の言うことを聞き、「そういうものだから」「昔からそうだから」で何故か納得させてしまえるならば、それほど都合のいい社会の歯車はないでしょう。

 

以上が、僕が考える「多くの大学生が入学早々、自分の可能性を自ら狭めている」原因です。

 

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原因を分析したので、対策もちょっとだけ考えてみようと思います。

想起しやすい対策としては、「学生が変わり、大学の教育システムに影響を与えたのち、その考えを持ったまま社会に進出していく」というボトムアップ型か、「国が教育システムを変え、学生の意識を変える」というトップダウン型のアプローチのいずれかだと思います。しかし、僕はどちらもうまくいかないと考えます。理由は、学生はあまりに数が多くかつバックグラウンドが多様だし、国は内部の利害対立の調整がうまくいかなそうだからです。

ではどうすればいいかというと、僕は大学を変えるべきだと思います。確かに、直感的には、日本に750校もある大学を全て変えるなど不可能なのでは、と思えます。しかしながら、日本には、ある1校が変わるだけで他の750校を少しずつ変えていくような、素晴らしい大学が存在します。それが、東京大学です。事実、秋入学も推薦入試も、最高学府たる東京大学が動くと、その流れは他大学にも波及しました。そして、天下の東大で育成された学生は、国であれ産業界であれ重要な役割を担います。ですから、もし僕がこの問題の解決に取り組むなら、東大をどう動かすか、についてを真剣に考える気がします(ぶんなげ)。

 

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2010年度一橋大学入学式で、当時の学長が言っていた印象的な言葉があります。それが「大学生活はすべて自己責任」です。大学生の足をひっぱる罠はいたるところにありますが、それにひっかかってしまうことすら、自己責任なわけです。

結局のところ、自分の人生を生きられるのは自分しかいません。一橋大学を卒業したと噂される某ブロガーの言葉を借りるなら、「自分のアタマで考えよう」、それしかないのでしょうね。