ひまじんの日記

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幸せを求め、戦い続けるために

僕は中二病なので、自分にとっての幸せとは何かをよく考えています。とはいえ、凡人である以上、幸せを追求するという選択には常に恐怖しています。なぜなら、僕は揺るがぬアイデンティティなど持ってはいないため、何があっても崩れないような自己正当化はできないからです。つまり、せっかく得た幸せも容易に崩壊し得る、ということです。加えて、幸せを追求していたはずがいつの間にか不幸のどん底にいた、などというストーリーを聞くたびに、自分の将来と重ねあわせてげんなりしてしまう、というのもあります。

そうはいうものの、僕たちの人生は一度しかありません。やり直すことはできません。それならば、生い茂る藪の中から自分の幸せを見つけ出し、それの享受を願うのもまた道理にかなっています。今日は、幸せを求めて戦い続けるために、気をつけるべき(と僕が判断した)ことをまとめたものです。言うなれば、凡人であるにも関わらず、インスタントな幸せを捨て、(本当に存在するのかよくわからない)「真」の幸福を追求する中二病患者への提案です。

 

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大前提として、この話は、自己分析は十分に済み「自分の幸せ」に対する仮説が立っている人を対象とします。つまり、仮説があってはじめて、その検証・修正作業が可能になるというわけです。まずは、検証作業に焦点を当てます。

そもそも、人生をかけて検証作業を行うわけですから、その行動へ自分を向かわせるためのエネルギーが必要です。そのエネルギーは、「私がやっていることは正しい」という自己肯定のみによって供給されます。では、自己肯定はどこから得られるのでしょうか。その答えは、自身の価値観の絶対視だと、僕は考えます。例えば、「受験に成功すれば将来きっといい感じになる」と信じ込んでいるからこそ、いまの自分を肯定して勉強を頑張れるし、「社会をよくしている」「家族を守っている」「金を稼ぎ成果を上げれば誰よりも優位に立てる」と信じ込んでいるからこそ、いまの自身を肯定して仕事を頑張れるわけです。金も、他者からの承認も、数字も、目に見える変化も、すべてはこれを支えているにすぎません。ですから、まずは自身が立てた仮説を信じるべきです。これを満たせれば幸せになれるのだと、思い込むことが重要です。

この場合、必要なものも自ずとわかってきます。それが、正当化のためのシステムです。先に挙げた、金や、他者からの承認や、数字や、目に見える変化は、全てこれの一部にすぎません。例えば、自分の幸せを「プライドの充足」とし、充足度合いを測る物差しとして「稼いだ金の量」を用いるとします。その場合、自身の価値観を揺るがぬものにするために、金が無い奴は惨めな負け組、金がある奴は優雅な勝ち組と思い込む必要があります。そのためには、プレジデントを定期購読したり、ネオヒルズ的なコミュニティに属し、価値観の同質化と他者からの承認を狙うのもいいかもしれません。とにかく、自分を信じさせるシステムは、自分で作るべきだということです。

上記2つの確立に成功すれば、自身の価値観は揺らぎにくくなり、仮説の正しさを信じて邁進する(=「幸せ」に対する仮説の検証作業を行える)ことができます。言うなればこれは、幸せのための主観的アプローチです。

 

さて、主観的アプローチにより、かなりのモチベーションを獲得できるようになりました。しかしながら同時に、ある大問題が発生します。それが、自分の視野が極端に狭まることです。そもそも、僕たちが描く「幸せ」とは、あくまで仮説にすぎません。ですから、仮説を絶対的に信じながらも、同時に疑いの目をも向けねばならないのです。頑張りながらも、時には仮説の修正作業も必要だ、ということです。恐らく、それに失敗した人たちが、「幸せを追求していたはずがいつの間にか不幸のどん底」にいるのだと考えられます。とりわけ、自己実現を目指す場合、仕事100%になり他の全てが詰むという状況が容易に想定可能です。

「価値観の絶対視」をしつつ「価値観を疑う」。一見、これらは両立し得ないものに見えます。ではどうすればいいのでしょうか。私は、検証作業を始める前に基準を定めることがこれの解だと考えます。仮説の種類によっては、検証作業中は大変忙しくなり、振り替える精神的余裕も時間も十分に確保できない場合もあるかと思います。その際に、簡易的なチェックができる基準を定めよ、ということです。わかりやすいものだと、仕事とプライベートの二分法による分析から始まり、手段が目的化していないか、メンタル・フィジカルは耐え得るか、組織の価値観を内面化しすぎていないか、などが考えられます。そして、仮に仮説が誤りだと感じられる場合、修正もしくは放棄することが必要になります。サンクコストには目をつぶり、真の幸福を目指して人生を転換する。非常に困難なことです。これが出来ないと思える場合、残念ですがインスタントな幸せで妥協せねばならない、ということなのでしょう。

以上が達成されれば、日々邁進しながらもたまに立ち止まり、仮説の修正作業を行うことが可能になります。言うなればこれが、幸せのための客観的アプローチです。主観的・客観的アプローチを並立させ、検証・修正作業を繰り返すことで、真の幸せへと少しずつ近づいていける。僕はそう考えます。

 

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なんやかんや書いてきましたが、僕自身、幸せを目指すべきなのかどうか、最近よくわからなくなってきました。と言うのも、幸せなんて所詮思い込みの産物にしかすぎないのならば、異常な努力を投入して目指すのが本当に正しいのかどうか、自信が持てないからです。

それでもまあきっと、未来は幸せなんだろう、とは思ってます。そう思える限りにおいて、少なくともいま、僕は幸せです。幸せに向かって頑張れるならば、既に人は幸せなのかもしれません。